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威徳王(いとくおう、526年? - 598年12月)は、百済の第27代の王(在位:554年 - 598年)。先代の聖王の長子。皇子に阿佐太子がいる。 諱は『三国史記』百済本紀・威徳王紀では昌、『三国遺事』王暦では高、または明。554年7月に先王が戦死したので王位についた。『日本書紀』によれば、生年は526年頃と推測され、聖王の死後すぐには即位せず557年3月に即位したとされる。『隋書』などには余昌と記される。 ==生涯== ===即位前後=== 554年7月に聖王は新羅を討とうとして、家臣が諌めるのも聞かず兵を起こし、大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死するという結果に終わった。このとき、威徳王も新羅軍に囲まれて死地に追い込まれたところを、倭の軍に助けられ逃げ延びたとされる。新羅は余勢を駆って百済を攻め滅ぼそうとしたが、背後に憂いがあるため取りやめになった。同年10月高句麗は熊川城〔熊津(忠清南道公州市)と見るのが有力だが、京畿道安城市の安城川付近と見る説もある。〕に侵攻してきたがこれを撃退した。『三国史記』百済本紀では聖王の死後直ちに即位して王として高句麗戦にあたったとするが、『日本書紀』では欽明天皇16年(555年)2月条に威徳王は弟の恵(後の恵王)を送ってきて聖王の死を伝えたこと、同年8月条には王位につかずに僧となろうとしたこと、欽明天皇18年(557年)3月に威徳王が即位したと記している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「威徳王 (百済)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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